チリ国民から宮城県南三陸町に手作りのモアイが贈られたことに対する海外の反応


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 1960年のチリ地震による津波でイースター島のモアイ像が多数被害を受けました。
 
 津波は太平洋を伝って日本にも押し寄せ、宮城県南三陸町では41人が亡くなりました。
 被災地同士の交流が始まったのは災害後まもなくのこと。まずモアイ像を復元するのを手伝うため、南三陸町民を含む日本人がイースター島を訪れました。
 その感謝の意を込めて90年、今度はチリ本土から同町へ、モアイ像が寄贈されました。
 モアイ像は「防災のシンボル」「友好の証」として、約20年間、南三陸町民に親しまれていましたが、一昨年の東日本大震災による津波で流されてしまいました。
 それを聞いたチリの国民、イースター島のモアイ職人たちは日本に再びモアイ像を送ることを決め、津波に流されない丈夫なモアイ像の製作を行いました。
 職人の一人は、「私たちが出来る(復元作業の)唯一の恩返しは、これしかない」と語ったそうです。

 そして先日、チリ国民の善意が込められたモアイ像が日本に到着し、公開されました。このことに対する海外の反応がありましたのでまとめて紹介します。


モアイ像復活 チリが南三陸町へ寄贈
 被災地から被災地へ-。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に贈られる、南米チリのイースター島民が造ったモアイ像が20日、東京・千代田区の丸ビルで公開された。「本場」で造られたモアイ像が海外へ贈られるのは史上初めて。同町は1960年(昭35)のチリ地震の津波で被災後、防災意識を高めるためチリ本土で造られたモアイ像を海沿いの公園に設置していたが、2年前の津波で流失し損壊。これを知ったチリ政府が無償で寄贈することを決めた。同町の佐藤仁町長(61)は「モアイが帰ってきた」と感慨深く語った。
 丸ビルに「モアイ像」が出現した。日本から約1万3000キロ離れた世界文化遺産のチリ・イースター島で造られた本場物だ。除幕式で、モアイ像(全長3メートル、重さ2トン)がお披露目されると、駐日チリ大使ら約100人が歓声を上げた。式典に出席した佐藤町長は像を見つめ、「モアイが帰ってきた。壊滅した町には、これ以上ないプレゼントです」と感極まった。
 南三陸町と、日本と同じ地震国チリには強い絆がある。60年に発生したマグニチュード8・5のチリ地震では、イースター島のモアイ像が多数倒壊した。津波は太平洋を伝って日本にも押し寄せ、南三陸町では41人が亡くなっている。被災地同士の交流が始まったのは災害後まもなく。まずモアイ像を復元するのを手伝うため、南三陸町民を含む日本人がイースター島を訪れた。その感謝の意を込めて90年、今度はチリ本土から同町へ、モアイ像が寄贈された。
 像は「防災のシンボル」「友好の証」として、約20年間、南三陸町民に親しまれていたが、東日本大震災の大津波で頭部(2メートル)が流失。町民も800人以上が死亡・行方不明、家屋の7割が全壊した。
 昨年3月、チリのピニュラ大統領が同町を視察した際、「復興のシンボル」として無償で新たに造り直し、寄贈することを約束した。さらに今回は、伝統を受け継ぐイースター島の島民が制作。島民10人が津波に耐えるよう硬い島の溶岩を選別し、約2カ月で完成させた。関係者によると、島民の1人は「私たちが出来る(復元作業の)唯一の恩返しは、これしかない」と話していたという。像は、同12月末に国内の海運会社の協力を得て、船で東京湾に到着。その後、像を固定するための台座が奈良市で造られた。
 「モアイ(Moai)」は現地語で「未来に生きる」という意味が込められている。佐藤町長は「町は、チリ地震の被災からも復興した。町民にもモアイとともに復興への強い気持ちを持ってもらいたい」と強調した。





イースター島のモアイ



チリ国民から宮城県南三陸町に手作りのモアイが贈られたことに対する海外の反応:


・これぞ本物のモアイ。


・元の場所より高い位置に設置した方がいいと思う。イースター島の貴重な石で造られたものなんだから。


・このモアイは去年の2月にオープンした、南三陸さんさん商店街というところに設置されるらしいよ。津波の避難場所に使われた近くの中学校より高い場所にあるから大丈夫だよ。


・モアイは貴重なものだからな。


・かつてモアイを製作していたイースター島の島民は人口爆発と森林減少で絶滅した。


・新しい観光名所が増えるね。


・日本とチリ……地球の反対側同士の遠く離れた場所にある二国だが、モアイが両国民の心をつないでいたんだな。



翻訳:しょぼん
出典:Easter Island statue to give hope to tsunami-hit town